この前の土曜日、彼女と彼女の同期とご飯を食べてきた。
その彼女の同期は、「させ子」と呼ばれているらしい。「させ子」じゃあんまりだから、ここでは「紗世子」と書く。まるで10代後半にて白血病にかかってしまった透明少女のような字面であるが、現実は正反対である。
ちょい黒く、いや黒くはないのかもしれないが、少なくとも白くはない。いや白いのかもしれないが、白くあって欲しくない。
これは馬鹿そうな顔をしてまさしく馬鹿な女性と話すといつも感じることだが、思いっきりひっぱたいてやりたくなる。それはサディスティックな面とかそういうことではなく、今までひっぱたかれなかったから馬鹿に育ってしまったのだという事実に対するバランス感覚なんだと考えている。
まあでも彼女の大事な友達のようだから、優しい眼差しをもって付き合っていけたらと考えている。
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太った友達。
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僕には、僕にまつわる決定的な事項が無いように感じられる。
最近大江健三郎の本を読み返したり、新たに読んだりしているが、彼には障害を持った子供という圧倒的な主題が存在する。または、四国の田舎での経験がある。まあ、こちらは大江の才能から際立った印象を得るのだろうが。
僕もそのようなものが欲しい。ということで、アナルを開発してみたい。一種のアイデンティティーになりはしないだろうか。
「菊門の春は遅い。そもそも汚穢の洞穴として、光の射すことのない暗闇にどのような種類の暖かさが存在しうるのだろうかと思うかもしれない。しかしながら、肛門は最も鋭敏な触覚器であり、はっきりと外部を知るのである。」
こんなことを書いてみたい。
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牧歌的イトーヨーカドーの最上階にはファミールがあり、90年代初頭にはそこでクリームソーダに関した記憶を連ねることが幸福の定義であった。僕もクリームソーダを飲むのが好きだったが、飲み終わった後にはいつも陰鬱とした心持ちになっていたように思う。まあ、今あの時の心持ちを表現するならば、それは陰鬱と区分するのだろうなという意味である。
非日常的な輝きを持っていたメロンソーダにバニラクリームが灰汁のように浮遊している光景、その醜さが僕は嫌いだった。その境界層の澱みは、社会科の教科書で見かける家庭用排水で汚染された小河川を想起させる。
だから僕は、何とかフロートなんて食べ物が世間を席巻していた頃、憧れも憐れみも感じながら、牧歌的イトーヨーカドーのフードコートで頼りなくいたのである。
僕の幼い頃の写真はいつも同じようなものだ。にこにこしているだけで工夫がない。
でも、こうして思い返してみると少しくらいは感傷的になったりすることもあったのだろうか。
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